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ブログメディアというものに興味を抱き携わってきた自身の活動履歴ですが、今後どうしていこうかという岐路に立っているところです。単純に熱量の減退というのもありますが、ブログメディアはまだまだ日本のメディア社会では認知に値しない部分が多いのかなっていう漠然とした理由です。メディアクリエイターが注目を浴びている反面で、この世界で食っていくだけのシステム的なものが大きく不足している感というか何というか、特に感じているのは「メディアはタダのもの」という独特の意識感なんでしょうか??

ガラパゴスなニッポンのネット事情、どこをどう間違ったのか…なんていう見出しと共に事を綴っていきたいくらいの昨今の出来事。ネット時代と揶揄されながらもアンチネットなペーパーシステムが未だに現役な日本の社会事情は、やはり日本特有の古くさいシステムを「ガラパゴス」と表現するにふさわしい状態をまだまだ維持しているのかもしれません。そんな現在のネット業務、このまま比重を増やして良いのかどうか…やはり今でも迷いの多い部分だと考えています。

ニッポンのド貧困時代はまだまだ続く、絶対に昇給しない会社社会と知らないことで足下をすくわれるネット社会が情勢弱者を食い物にしている社会では。生きることは一筋縄ではないけれど、一生懸命抗わなければならない。ブログメディアをこれからも持った方が良いかといわれれば、回答は「イエス」です。ただ、過度にネット社会や会社社会のみに食われないように注意しながら…という但し書きが要りますが、これから人並みに生きて行くには「メディアを運営できるくらいのアンテナ能力」が必要なのは間違いないのかなって思っています。難しい話ですが。

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ネットにリーチを持っているということは「相応に個人をネットに接続する」ことになるわけで、個人の個性を前面に押し出していく機会があるという事に繋がると考えています。現在はほぼすべての人というくらいの人口がネットへのリーチをもっているわけで、スマホを持っている人すべてがネット民…くらいに捉えても良いのかもしれません。その中での個人メディアなんていうものは本当にチラシの裏の落書きみたいなものなのでしょうが、それらを育み認知に至らしめるノウハウというのは絶対的に必要になってくるのでは無いでしょうか? ネット社会で生きるというのは、そういうものだと認識しています。

運営ノウハウが直接的に役に立つのであればそれに越したことはありませんが、そういう機会が巡ってくるのは本当にごく一部の嗅覚保持者だという事も認識しています。多くの不保持者にできるのは「ノウハウの応用による処世術の活用」であり、フィールドに沿ったコミュニケーション能力の活用であると考えています。

意思疎通の礎のようなものとして

何故衝突は起きるのか? という題材を考えたとき、多くの場合は「意思疎通の齟齬」であるという認識を持っています。詰まるところの「コミュニケーション不足」であり、不明確な意思疎通と「通じているであろう」という誤認識。大雑把なコミュニケーションはだいたい大雑把にしか伝わらないという大前提の認識不足ではないかと思う次第です。多くの仕事の多くのトラブルを見てきましたが、おおよそのトラブルは不明瞭なコミュニケーションというのが私の中の結論でした。

語彙力やコミュニケーション能力は情報社会にこそ主軸を置くべき分野になってきたと考えています、人と人が接続するために必要な手順だからこそ妥協できないというか何というか。非情な話ですが、コミュ障はその重要性の元に追いやられていく…という話でもありますが、日本のような「調和を重んじる社会性」の世界こそもっとコミュニケーションスキルに時間や予算を投資すべきではないのかなって思う次第。現在の学校社会のような「ペーパースタディ方式」はある程度駆逐されるべきでは無いかと考え、欧米諸国の方式を重んじるのであればもう少し「ディスカッション方式」な学習方式を導き出さなくてはならない…わりと急務だと思うのですが、どういった意見があるでしょうか?

今後数年で個人メディアのニーズが大きく動くことは考えにくい世界でもありますが、「個人がメディアを作り運用していく原動力」はもっとニーズが増えていくのでは無いでしょうか? 知的欲求を刺激する媒体として、またはそれを育んでいくきっかけとして。個人メディアはベクトルを変えつつも増えていくことが望ましいと考えています。

もっとも知るべき知識のエネルギーとは

知識のエネルギーと称する「アタマで解決するチカラ」とは、やはり係争解決のエネルギーだと思う次第です。ネットでの些細ないざこざの半分くらいは本当に些細なことからはじまっていると思うし、リアルでも紛争に発展する事態の半分くらいは些細な解釈の違いから発生していると考えています。それに対しての柔軟な判断と提案力は…今後の社会を生き抜くための必須スキルになり得ると考えていますが、どう思われるでしょうか? 対話のみの解決は難しいとは言いますが、対話の一歩が無ければ全くの進展は無いわけです…対話意思がない相手とのやりとりは除きますが。

知らない事で被る被害と、知っていることで軽減できる被害。知識の有無が何を分けるかはわかりませんが、知らない事を放置するリスクは非常に大きくなってきたといって差し障りが無いと思います。メディア運営に語彙力が不足すると余計な誤解を招く事が定期的に発生しますが、その解決策や強行突破策などの知識は人生のワクチンデータとして大きく寄与することは間違いないのでは無いでしょうか?

そこにビジョンはあるのだろうか?

メディアを作る上で一番重要なのは「将来性」だと言いますが。個人メディアにどれほどの将来性が要るかどうか…あまり大層なものは要らないのが個人メディアの強みかな? とも思います。ただ、発信媒体として機能していく上ではやはり一定の青写真は必要でしょうが。ただ、漠然と「好きなことを綴りたい」とか「これは面白いと伝えたい」などの純粋性の高い小さな意図で良いので、ニュアンスの伝わる気持ち的なものが映れば良いのではないかな? と思っています。

個人メディア推しですが、それが収益性あるオーソリティサイトにまで仕上がるには数年くらいかかるのが普通です(例外も多数ありますが…)。問題は「継続力」であり、継続による妥当な学習と反復によりそれが大きな成果に至る…というのが考えです。特に日本の個人メディアは「カネのニオイに敏感」という風潮があるようで…マネタイズを嫌う傾向があるとか無いとかで、収益性あるサイトと名がつくと途端に嫌ってしまうなんていうこともあるとか。

それでもサイトをもって運用していくことに理由はあるのか否か? 「マネタイズ」という縛りを取り除けばあるんじゃ無いでしょうか? 知的欲求を満たせるだけのものがあれば、あるいは。

 

世の中には趣味のニュースサイトやホビーサイトが腐るほどあるといい、その中で生き残って行くには相応の最適化やら何やらが必要になってきます。ただ、あるに越したことは無いとはいえ、無くてもそれなりに生きていけることは間違いないので…縛りに振り回される必要は無いと思います。情熱と根性…と書くとアレな精神論的な話になりそうですが、この世界は継続してナンボの世界なので。努力は報われるとは限らないものの、報われるための努力については一切考慮しなくて良いから余裕のある時に突き進んでいくというスタンスが続けられるのが個人メディアの醍醐味といえばそういう話。

好きは牽引力にあふれている。胸を張って良い。

その「好きの詰まったサイト」が胸を張って「私のエネルギーだ」と言えるところまで自分を高めるためのツールになることこそが「個人メディア保持の理由」だと考えています。無論、流動性にあったある程度更新頻度のあるサイトであることが望ましいことに変わりは無く、相応に改訂やら改良を加えることも望ましいし…色々面倒なことがつきまとうし、時には法的なトラブルもつきまとうこともしかり。しかしながら、生きていく上ではこういう情報処理能力は必要だし、あることで自分に反映させていくことが出来る。…つまり何が言いたいのかというと、「俺の好きのエネルギーを見てくれ」ということであり、それらを通じて「コミュ障、グッバイ!」を掲げていければという話であり…つまり憎むべきはコミュ障と、コミュ障を助長させるような風潮である。……という話。

 

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